《諏訪康雄先生((法政大学名誉教授)のシリーズエッセイ3》 置き換えのキャリア論

「置き換えキャリア論」  諏訪康雄(法政大学名誉教授)

他の領域の人の指摘や、昔の人の箴言を、「キャリアの視点」で捉えなおすため、言葉の置き換えをすることがあります。モノごとの本質は、ある事柄の記述の領域を超えて、しばしば他の領域にも当てはまるからです。ちょっと例をあげてみましょう。

1.置き換えキャリア論の例(1)

黒人で初めて米国の統合参謀本部議長になったコリン・パウエル将軍は、『リーダーを目指す人の心得』で、こんなことを書いています。

「陸軍では、詳細な評価がくり返しおこなわれる。年に1回の定期評価に加え、自分が転任するときにも上司が転任するときにも評価がおこなわれる。評価するのは直属の上司である。もうひとつ上の上司も評価をおこなうし、この場合、その上司の部下全員が比較評価される。訓練校における成績も評価される。配偶者もひそかに観察されている。我々のキャリアは執拗に精査・管理されているのだ。理由は単純だし、誰が考えても当然のことだ。我々は人材を外部から登用することがない。15年後に大隊指揮官が必要なら、いま、目の前にいる有望な新任少尉をそこまで育てなければならない。」

『リーダーを目指す人の心得』(コリン・パウエル=トニー・コルツ(井口耕二訳)、飛鳥新社、2017年、文庫版、108頁)

「陸軍」を「会社」に、「大隊指揮官」を「支社長」、「新任少尉」を「新入社員」と置き換えてみれば、これは官庁や大企業のような、大きな組織に共通する話になります。

「会社では、詳細な評価がくり返しおこなわれる。年に1回の定期評価に加え、自分が転任するときにも上司が転任するときにも評価がおこなわれる。評価するのは直属の上司である。もうひとつ上の上司も評価をおこなうし、この場合、その上司の部下全員が比較評価される。訓練校における成績も評価される。配偶者もひそかに観察されている。我々のキャリアは執拗に精査・管理されているのだ。理由は単純だし、誰が考えても当然のことだ。我々は人材を外部から登用することがない。15年後に支社長が必要なら、いま、目の前にいる有望な新入社員をそこまで育てなければならない。」

内部労働市場の制度化が進んだ組織では、世界中どこでも、多かれ少なかれ、このような運用が見られるようです。

2.置き換えキャリア論の例(2)

もう少し民間企業に近づけてみます。たとえば、高名な経営学者のピーター・ドラッカーは、仕事の未来論をよく論じていました。ある時、大学院の教室でこう語ったそうです。

「私たちはだれに対しても、自分のためにならない職務を引き受けるよう求める権利をもちませんし、優れた人材をくさらせる権利もありません。」

(ウィリアム・A・コーン(有賀裕子訳)『ドラッカー先生の授業:私を育てた知識創造の実験室』ランダムハウス講談社、2008年、240頁)

この言葉は、本NPOが推進する「キャリア権」の理念を、ドラッカー流に裏側から指摘していたように思えてなりません。

今の時代のキャリアについても、次のように指摘していました。職業人生活をキャリアと置き換えたほうが、今の人たちにはピンとくることでしょう。

「五〇年に及ぶ職業人生活は、一種類の仕事をするには長すぎる。企業をはじめとする組織の短命化も、労働市場の多様化を促進する。これまでは、雇用主たる組織のほうが被用者よりも長命であることが常識だった。これからは、被用者、特に知識労働者の労働可能年限のほうが、うまくいっている組織の寿命をさえ上回る。」

(P.F.ドラッカー(上田惇生訳)『ネクスト・ソサエティ:歴史が見たことのない未来がはじまる』ダイヤモンド社、2002年、16頁)

そうした時代のキャリア形成については、

「若いうちに専門的な仕事と管理的な仕事の双方に就かせ、経験を積ませる」ようにしたり、「仕事と組織に継続学習を組み込む」ようにしたりすることが重要だ、と提唱しています。

(P.F.ドラッカー(上田惇生ほか訳)『ポスト資本主義社会』ダイヤモンド社、1993年、355頁、167頁)


といのも、「ポスト資本主義社会は、知識社会であるとともに、同時に組織社会である。しかしこの二つの社会は、相互依存の関係にありながら、その概念、世界、価値観を異にする」からだと指摘しています(同書354頁)

3.置き換えキャリア論の例(3)

さらに大胆な置き換えを試みましょう。日比谷公園を設計した本多静六(東京帝国大学教授)の言説からです。

彼は、投資家としても大きな成果を上げ、しかも資産の大部分を社会に寄付し、子孫には一部分しか残さなかったことで知られています。当然、投資哲学を持っていました。

「金儲けを甘く見てはいけない。真の金儲けはただ、徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って努力を積み重ねていくほかは、別にこれぞという名策名案はないのであって、手っ取り早く成功せんとするものは、また手っ取り早く失敗してしまう。」

(本多静六『私の財産告白』実業之日本社、2005年、124頁。原著刊行は、同社、1950年)

この文章の「金儲け」を「キャリア形成」に置き換えてみます。

「キャリア形成を甘く見てはいけない。真のキャリア形成はただ、徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って努力を積み重ねていくほかは、別にこれぞという名策名案はないのであって、手っ取り早く成功せんとするものは、また手っ取り早く失敗してしまう。」

よほどの才能や幸運に恵まれた人以外の、ごく普通の人のキャリア形成は、この指摘がまさに当てはまるでしょう。ほとんど違和感がありません。

また、次のようにも言っています。

「金儲けは理屈でなくて、実際である。計画でなくて、努力である。予算でなくて、結果である。」(同書93頁)

これも「金儲け」を「キャリア形成」と置き換えてみますと、

「キャリア形成は理屈でなくて、実際である。計画でなくて、努力である。予想でなくて、結果である。」

となって、多く悩むばかりで、あまり実践的、行動的になれない人への、貴重なアドバイスとなります。

4.置き換えキャリア論の例(4)

孫引きなので少し気が引けますが、スムースに置き換えができる例なので、1885年に原著が刊行されたフィネアス・T・バーナム(米国の実業家)の意見(Phinaeus T. Barnum, Barnum's Rules for Success in Buisiness, The Life of P.T.Barnum, 1885, pp.394-399.)も使わせていただきます。

「1 自分の生まれつきの性格に合ったビジネスを選ぶこと。」
「2 約束は必ず守ること。」
「3 何をするにしても一生懸命やること。」
「4 飲みすぎないこと。」
「5 理想に走りすぎないこと。」
「6 エネルギーを無駄に分散しないこと。自分の時間と能力を一つの事業に集中すること。」
「7 優秀なスタッフを雇うこと。」
「8 自分のビジネスをPRすること。隠れていては誰も見つけてくれない。」
「9 浪費を避けること。」
「10 他人に頼らないこと。周囲の人を頼りすぎないことである。自分の成功は自分でしか築き上げられない。」

(チャールズ・エリス[鹿毛雄二訳]『チャールズ・エリスが選ぶ「投資の名言」』日経ビジネス文庫、2009年、243-249頁に依拠)

起業家のキャリア形成のための助言でしょうが、雇用されて働く人のキャリア形成にも、ほとんどそのまま当てはまりそうです。以下は、「ビジネス」「事業」「成功」を「キャリア」に言い換え[*は元のまま]。

1 自分の生まれつきの性格に合ったキャリアを選ぶこと。
2 約束は必ず守ること。*
3 何をするにしても一生懸命やること。*
4 飲みすぎないこと。*
5 理想に走りすぎないこと。*
6 エネルギーを無駄に分散しないこと。自分の時間と能力を一つのキャリアに集中すること。
7 優秀な仲間と働くこと。
8 自分のキャリア成果をPRすること。隠れていては誰も見つけてくれない。
9 浪費を避けること。*
10 他人に頼らないこと。周囲の人を頼りすぎないことである。自分のキャリアは自分でしか築き上げられない。

4.なぜ置き換えられるのか?

多くのキャリアは、社会における職業を核にした人生展開です。そこで、投資でも、ビジネスでも、人生とそれを取り巻く社会で起きることを観察して生まれた名言はどれも、多かれ少なかれ、キャリアに当てはまる部分を持っているからでしょう。

ちょっと心を打たれる言葉に出会ったとき、主語や目的語を「キャリア」に置き換えてみたりすると、キャリア論の新たな側面に気づくことがあります。

次の文は、「場面」を置き換えさえすれば、キャリア形成への警句になっています。

「クイズ番組で奨学金が賞品にならないのは、みんなすぐに使えるものを求めるからだ。キャンピングカーなら喜ばれるが、『夜間学校の授業料八年分!』というのは受けない。大学卒の学歴があれば、キャンピングカーが何台も買えることを考えればおかしなことなのだが、それが大衆の心理なのである」。

(T.J.スタンリー&W.D.ダンコ[斎藤聖美訳]『となりの億万長者』早川書房、1997年、42頁)

また、スイスの憲法学者カール・ヒルティーの議論も、賛否はあり得ますが、キャリア形成をめぐる一側面について、こう語っています。

「真の仕事ならどんなものであっても必ず、真面目にそれに没頭すれば間もなく興味がわいてくるという性質を持っている。ひとを幸福にするのは仕事の種類ではなく、創造と成功とのよろこびである。この世の最大の不幸は、仕事を持たず、したがって一生の終わりにその成果を見ることのない生活である。」

(岩間平作訳『幸福論(第一部)』岩波文庫、1961年、16頁)

私のような引退高齢者の場合、以下の指摘を、これからのキャリアの導きとする必要がありましょう。

「壮年期、勤労期からの仕事の一部を、そのまま同じように延長し、お礼奉公とか奉仕の意味をもって、後進者の邪魔にならぬよう心掛けつつ、しかも、その助けとなるようにその活動をつづけること。」

(本多静六『人生計画の立て方』実業之日本社、2005年、211-212頁。原著刊行は、同社、1952年)