《リレーエッセイ3》 実践女子大学大学教育研究センター 特任教授 深澤 晶久 様

《リレーエッセイ3》「学ぶと働くをつなぐこと その①」
実践女子大学大学教育研究センター 特任教授 深澤 晶久 様

キャリアとは、たった一回限りの人生を運ぶ馬車が残す“轍”のことである。」これは、神戸大学の金井壽宏教授の有名な言葉である。

私自身の轍に大きな変化が訪れたのが2014年、今から3年前のことであった。34年間も勤め続けた企業を、しかも定年まで4年も残して退職し、働く場所が大学に変わったのである。 私がまさか大学においてキャリア教育を担当するとは夢にも思っていなかった。まさにブランドハプンスタンスそのものだと感じた。

私の会社人生は、営業からスタート、その後マーケティング、商品開発を担当していた。 もともと華やかなプロモーションの企画・立案を志して企業に入社したので、今思えば大変な長時間労働も全く苦にならず仕事に没頭していた。 このキャリアに大きな変化をもたらすのが労働組合との出会いである。

1993年、全く関心のなかった労働組合専従の生活が始まった。 そもそもは1年だけという約束だったにも関わらず、なんと4年の歳月が流れることになる。そしてついに任されたのは中央執行委員長、組合員16,000人の組織のリーダーである。

思い出すと最も辛かった時期が委員長に就任した最初の1年間であった。その重圧はメンタルにまで影響を及ぼすほどのものであった。 しかし、その一方で、今までの仕事の領域を続けていたら決して知ることの出来なかった多くの仕事や職場を知ることが出来た。何より、本当に多くの社員が会社を支えているのだということを感じた。
「企業は人なり」という言葉を日々実感することになったのであった。

今、思い返せば、私のキャリアの軸がマーケティングから人に変わったのは、結果として全く関心のなかった労働組合の仕事との出会いであったということになる。どうしたら社員が働き甲斐を感じ、生き甲斐を感じて過ごせるのだろうか、このことを考えた9年間となった。

その後、労働組合の役割を終え、2004年には人事部への異動となり、2006年には人材育成の担当となり、採用、研修などの業務に携わり、2009年には人材開発室の責任者を拝命するとともに、2011年には社内に初めての「キャリアデザインセンター」を自ら設立するまで至ったのである。 そして、3年後、企業を退職して出会ったのは大学、しかもキャリア教育の担当教員であったわけだから、改めて考える“轍”の不思議さを、今しみじみと振り返っているところである。

次回は、大学に移ってからの轍を記してみたいと考える。