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《諏訪康雄先生((法政大学名誉教授)のシリーズエッセイ1》


「キャリアの現在・過去・未来」  諏訪康雄(法政大学名誉教授)


今を生きるのが現在形のキャリア、昨日までの生き方は過去形のキャリア、そして、明日からを生きていくのが未来形のキャリア。
人によって長さの違う人生という数十年間かそれ以上の時間軸のうえを、時の経過とともに、私たちのキャリアは展開していきます。

◇ 語られづらい個人史

日ごろ私たちは、折おりに、自分の来し方、行く末を考えます。でも、その作業の多くは個人の内面でなされており、せいぜい親しい関係にある人との間で、多少の話のやりとりをすることはあっても、全面的に語られることはほとんどないでしょう。 実際、誰かから延々と自分談義を話されると、それを聞かされる多くの他人は、辟易してしまうのが常でしょう。

ですから、普通の人のキャリアは、体系的に、微に入り、細に渡って他人に語られるものではないし、また、他人が聞く機会もありません。
有名人の自伝や伝記、人生を振り返るTV番組や新聞雑誌記事でも目にしないかぎり、他人のキャリア全体の概略を知ることは、そうそうないと思えます(キャリア・コンサルタントなどへの相談はこの例外となる)。

もちろん、親しい関係にある人の場合、断片的にあれこれと聞くことのある種々の挿話をつなぎ合わせることで、その人のキャリアと人柄などの相当部分を推論できますし、現にそうしながら、家族、友人、同僚などとの基本的な人間関係を構築し、維持しています。

というわけで、会員の皆様に向け、個人的な話をするのには、私もちょっと躊躇するところがあります。そこで、職業キャリアにかかわる範囲において、多少のエピソードを記すことで、今回の責めをはたさせていただこうと思います。


◇ 現在形のキャリア

現在は、基本的に年金生活です。朝4時か5時ころに目覚め、その日の予定を確認し、外出することがなければ、午前中いっぱい、自分の研究テーマに関連した書籍や論文や資料を読んだり、あれこれの思索にふけります。
毎日、朝方に、1日6時間ほど仕事をし、午後や夕刻は他のことに充てたというダーウィンを見習い(昔、伝記で読み、いつかそうできたらと憧れてきた)、同様な時間の送り方をしようと心がけています。
自宅の書庫には、来る日も来る日も24時間、読み続けたとしても、残りの人生だけではとては読み切れないほどの本や資料が山積みとなっており、選択と集中をしないかぎりは余生を心やすらかに過ごすことなど出来そうにありませんから、若いころにやり残して気に掛かっている仕事の一部と、ここ四半世紀ほど取り掛かっていたキャリア関連の仕事に、余生を集中したいと希っています。

自身の仕事以外では、国や研究機関の研究会などに少しかかわったり、時どき頼まれる原稿を執筆したり、講演をしたり、といった具合です。NPOの仕事にも、一定の時間を充てていきたいと考えています。
ずっと専門職としてキャリア形成をしてきましたので、今もその延長線上の人生です。現役時代と比較すると、依頼仕事の負荷はまるで軽いのですが、それでもけっこう時間と精力をとられてしまうので、高齢期にあった持続可能なペースを構築しなおす必要を痛感させられる日々です。

また、組織を離れると、図書館利用でも、人に会うのでも、公共の場を使う機会が増え、そうした場所の意義を再認識させられています。街なかを歩いていても自然に、以前はあまり気にも留めなかった小さな商店や会社の存在に目が向き、円滑な分業と協業があってはじめて成り立つ地域社会や産業のあり方をあらためて考えさせられてもいます。


◇ 過去形のキャリア(T)

大学を卒業して以来、7年間の徒弟修業(5年間の国内大学院+2年間の海外大学院での職業キャリア準備)、36年間の大学勤務(大規模私立大学での職業キャリア展開)、大学退職後4年間の第2の勤務(フルタイム公務員としての職業キャリア展開)を経験させていただきました。以上を合計すると、47年間の専門職人生ということになるでしょうか。
大学入学時から研究生活を志向してきましたので、それも含めると、半世紀を超えます。

その間を振り返ると、いつも自覚に欠けてドジを踏んだり、なすべきことをさぼったりばかりで、冷や汗いっぱいです。でも幸運なことに、多くの先達や友人、知人、そして何よりも家族に助けられてきました。
素晴らしい人びとに囲まれてこられたのは、とても有難いことだったと心から感謝しています。

職業キャリア展開期には、自身の研究、研究仲間との調査研究、国の審議会や研究会といった部分が心と生活時間の多くを占めていました。とはいえ実際には、大学における教育や校務の仕事にもっとも時間を割かざるをえませんでした。
還暦を迎える年(2007年)に思い立って、1年間の仕事時間を1日も欠かさず、3分(0.05時間)を単位として克明に記録してみました。

この年には学部教員と大学院教員の兼担(翌年からは社会人大学院専任)でしたが、年間の実労働時間を集計すると、以下のとおりでした。
@教育と校務を足すと   → 1515.7時間(授業と授業準備の教材用意などで1126.3時間、教授会や委員会や入試などの校務対応で389.4時間)
A研究関連時間      → 1284.8時間(下記Cのうち38.8%に相当)
B社会活動(行政・講演等)→  512.3時間(行政の審議会や研究会など254.6時間、講演などが257.6時間)

@+A+Bの合計労働時間は、3312.8時間です(=C。面倒くさがらずにその場で詳細につけたのですが、もし記録に誤差が±10%あるとしても、年2982〜3644時間ほどの間のどこかだったでしょう)。
@とAを足した大学教員としての業務時間合計は2800.5時間でしたので、研究関連時間を含め、大学教員としての勤務時間に年間の全労働時間の84.6%(約85%)を充て、残る15%くらいを社会活動に割いていた比率です。

仮に「教育と校務に充てた時間数」を「年30週だった公的授業週の数」で割ると、週に55時間ほどを教育と校務に関連することのために働いた計算になります。そして、「残る年22週の無授業週の数」で「研究関連時間数」を割ってみますと、今度は週に58時間を研究に充てた計算になります。
両方を合わせますと、世間が考えるのとは違い(それに魅かれて私が研究者を志したのとも異なり)、時間的にそれほど優雅でない教員生活だったようです(実際には、各種活動が、時期によりウエイトの差はあれ、常に重畳的になされていた。 また、この1年間の平均睡眠時間は日に5.5時間だった)。

ちなみに、文部科学省系の科学技術・学術政策研究所の調査(2008年に全国の国公私立大506校の教員ら2709人を対象に実施)によりますと、大学教員の平均勤務時間は年2884時間でした(「大学の研究時間 理想遠く」『日本経済新聞』2016年9月16日朝刊29面)。
研究時間は、そのうち1041時間(前回調査の2002年比で22.6%減。勤務時間に占める割合は36.1%)。国公私立の違いは以下のとおりです。

 国立大教員 1234時間(19.1%減)
 公立大教員 1125時間(20.4%減)
 私立大教員  912時間(23.9%減)

この調査での、講義やゼミの実施、授業の準備などの教育活動は823時間で、勤務時間に占める割合は28.5%(2002年比、5.5%ポイント上昇)です。そして、社会サービス活動は、451時間で同15.6%(2002年比、51.3%ポイント増)でした。
社会サービス活動のうち、学会出席や産学連携など研究関連の社会貢献が184時間、市民講座や高校への出前講座など教育関連が135時間だったそうです。

私が大学関係で費やした労働時間も2800.5時間ですから、大学教員の全国平均である2884時間とほぼ一緒でした(Cの総計の方を使って平均値と比較しても、私は平均的大学教員より15%多く働いただけだった)。
というわけで、現役時代はけっこう忙しく、企業や役所で働く人と同じくらいは働いてきました。上記Bの研究関連時間だけを週当たりでみると、還暦の年で平均25時間を少し切っていますから、むしろ現役を退いた今のほうが研究時間では多いくらいになりました。


◇ 過去形のキャリア(U)

このように、職業キャリア展開の実際的な中心は、時間配分からして、教務と校務でした。しかし、心理的なコアを占め、キャリア・アンカーとなっていたのは、やはり研究活動でした。

徒弟修業時代から30歳代半ばまでは、研究対象が「労働協約」(労働組合と企業・産業団体との間に結ばれる集団的取決め)でした。とりわけ19世紀から20世紀初頭にかけてのイタリア初期労働協約の生成と法的規制や、日本の協約法理の研究に、相当に熱中していました。
ところが、社会における労働協約の存在感が下降していく過程で、研究の先達から雇用政策と法の調査研究をするようにと示唆され、あまり興味関心をもてないまま、パート労働、派遣労働、契約労働、労働市場、転職、失業などの勉強をはじめたところ、いつしかそちらが本業となってしまいました。

労働協約というテーマは大学院初年次に指導教員がゼミのテーマに選んだものに影響されておりました。また、雇用政策法のテーマは先達からの強い勧誘に引きずられたものでした。ですから、キャリア形成の初期も転換も、自分で途を選ぶというよりは、周囲の影響が大きく、それが後に自分の内面的なモチベーションとなるかどうかにキャリア展開は掛かっているような気がします。少なくとも、どこか主体性に欠ける私の場合は、そうでした。

Japan as No.1と日本型雇用を称揚していた1980年代に、西欧における長期失業やキャリアカウンセリングの効用などといった雇用政策の勉強をしてきたことは、1990年代、バブル経済がはじけた後、各種の仕事をするうえで役に立ちました。
先達がそこまで見通していたかどうかはわかりかねますが、ともかく、世の中は「塞翁が馬」のような面があるものだと感じています。

「キャリア権」の概念は、そうした過程でモヤモヤした思いで心に浮かんでは消えていたものが、徐々に形を整え、実を結んだ産物でした。1994年に尊敬する先輩研究者と共同で、労働市場と法の関係についての基本構造をめぐる研究論文を執筆し、その2年後の1996年になるとキャリア権の核となる考え方がほぼ固まり、豪州の南端にあるホバートでの国際学会で報告し、次いで1998年に欧州最古の大学があるイタリア中北部のボローニャでの国際学会でさらに踏み込んだ報告をしたうえで、1999年にようやく日本語での発表をしました。
キャリア権の構想と論文執筆は、ちょうど私の40代後半から50代前半にかけての時期でした。一般に社会科学者の研究活動のピークはこの頃だと指摘されますので、そう意図したわけではないまま、私もまったく平均的なパターンに添っていたようです。

50代後半から60代にかけては、この概念をパラフレーズし、社会に説明していく仕事が多くなりました。その点で、2001年の職業能力開発促進法と雇用対策法の改正で、キャリア権の理念を踏まえた「職業生活」の位置づけをする立法をしていただいたのは、社会的な画期となりました。今では49法令に職業キャリアの法令用語版とでもいうべき「職業生活」の用語の使用がみられるようになりました。


◇ 未来形のキャリア

未来形のキャリアは、過去から現在に至るキャリアの蓄積を背景に、時代の脈絡とのかかわりで、しばしば思いもかけない方向に広がっていきます。その意味で、未来に何があるか、何をするかは、「現在」という時点では、人びとの夢や志と各種の発現確率が絡み合った世界にとどまります。

私も、幸せなことに、若き日に研究人生を送りたいと希望した方向を進むことができました。ところが、60代後半の時期には思いがけなく4年間を公務員生活として過ごすこととなり、その任期が終わるとともに、大学にそのまま残った場合よりも1年間だけ早く現役生活を退く結果となりました。
研究テーマでも、同じ労働関係とはいえ、当初とまるで違った領域に足を踏み入れる結果となりました。それは、若き日には存在することも考えず、夢想だにしたことのなかった分野でした。

というわけでこれからは、平均余命が15年ほどあり、健康寿命からするとほぼ過ぎようとしていますので、後者をできるだけ長引かせる努力をしつつ、自分のキャリアの幕引きを考えていくつもりでおります。できることならば、この世を去るときまでずっと、何かしらわくわくした思いをもって人生を送りたい、と祈願しています。


◇ おわりに

今後とも社会におけるキャリア尊重と支援の流れは変わらないと確信します。そして、認定NPO法人キャリア権推進ネットワークがはたすべき役割も、ますます存在感があるものになることと予感しています。

これからも、当NPO活動へのご理解とご支援のほどを、どうぞよろしくお願い申し上げます。


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