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《キャリア権雑録2》
社会とキャリアの交錯

 最近、「人材」と書かないで、「人財」と書く場合が目につく。

 組織における人間は、たんなる「材料」ではなく、まさに「財産」なのだ、と捉える立場の表明である。社員、従業員は、仕入れて保持するのにコストのかかるばかりの「材料」ではなく、組織を支えて価値を生みだす「財産」であると位置づけるのは、よいことだ。使い捨てのできる材料などではなく、大事に育成し、キャリアを形成していってもらうべき、貴重な資産だとみて、人財として活用することは、社会にとっても望ましい。

 しかし、残業過多であったり、休日休暇が少なかったり、非正規雇用のキャリア開発に熱心でなかったり、パワハラの絶えない職場があったり、従業員のメンタルヘルス管理に課題の多かったりする企業があって、それが人事部を人財部と改名したとすると、どこかうさんくさいという印象を与えるだろう。

 歴史的にみても、これまで「人」という字のうしろに、いろいろな字を配して、人的資源の性格づけ、意義づけをしてきている。

 まず、人が単純労務や肉体労働に従事するかぎり、人間存在を代表するものは「足」であったようだ。川の渡しや道路で人や物を運ぶ労働者などが「人足」とよばれたように、もっぱら足がついていて動き回ればよいとでもいった呼称であった。

 これに対して、ものづくりで手先の技能的な仕事をする段になると、人のうしろに「手」が登場する。「人手」である。この領域では、手先の器用さが要求される。極論すれば、手先さえ熟練すれば、それでよいといった視点を感じなくもない。

 このように、使われる文字が足から手へと身体を上がってくれば、次は「頭」となる。だが、「人頭」は、「人頭税」のように頭数を数える場合に使われるくらいで、頭脳労働者を表す用語としては、まったく使われていない。

 それに引き替え、頭脳的要素も少し含んでいるのが、「人材」である。人は生産活動に際しての原材料の一部となり、将来的な付加価値を期待される素材となる。みがけば光るといったキャリア形成も期待される。「人的資源」という場合も、イメージとしては、似たところがある。

 これらと異なり、人をより高く評価したものが「財」となった「人財」という言い方である。個々人の「キャリアは財産」であるべきという哲学からすると、人はすべからく人財たらんとしているといえる。だが、「財」という語感、字感からであろうか、さして普及していないし、前述のようなうさんくささもある。

 キャリア権を基盤に、キャリアを展開し、形成していく人間という意味を込めた用語として、より適切な呼称はないものだろうか。

 知識社会化のもとで知識労働がますます重要となり、国際的にタレント(独自の才能をもった人)を希求するニーズが高まり、教育訓練と学習と創意工夫が意味を強めている現在、人のうしろに才能の「才」を配して、「人才(じんざい)」と呼ぶのはどうだろうか。 人は皆、何らかの才能を秘めているという意味も、そこには込められている。

 思えば、「人」の社会経済的な位置づけにおいて、足や手や、材や財が取りざたされて、「人足→人手→人材→人財」などと呼称されてきたのだが、そこにみられたのは、個々人の思いや能力や意欲とは別物の、キャリアをめぐる社会経済的な脈絡であった。そうすると、知識社会化は進んできているが、まだ発展途上状態にあるので、人頭や人才は受け入れられず、気配りが求められ感情労働といわれる対人サービス職務が広がってきてはいるが、「人」に「気」や「情」つけて「人気」「人情」といった使われ方はされそうにないのである。(KO)

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